種を与り、稲を培う

 

平成元年の秋。伊勢地方を二度襲った台風が、伊勢神宮の神田の稲をなぎ倒した。嵐が過ぎ去った後、全滅かと思われた田んぼの中に、すっと立つ稲が数本だけ生き延びているのが見つかった。その稲を育ててみると、味もよく強靭であり、宮司はイセヒカリと命名した。人から人へと手渡される縁故米として静かに受け継がれていき、与った種籾は、はかないような縁のつらなりによって、和久傳まで辿りたどり着くのだった。

 かねてより米づくりを行なっていた市野々の棚田にイセヒカリの苗を植え、雑草を引き、稲刈りを迎えた。最初の年は猛暑と台風に見舞われ、田んぼから離れている間も気を揉む日々だったが、稲穂は見事に米を実らせた。思えば、和久傳のふるさとである丹波・丹後地方には、神様が伊勢神宮に鎮座する前におられたとされる元伊勢伝承地のひとつ、「元伊勢三社」や「元伊勢籠神社」がある。伊勢神宮から受け継がれてきた種籾を、元伊勢神社を抱く丹後の地で、たくさんの手を借りてつないでいる。

 和久傳のイセヒカリの田んぼを現地で日々見守る本田は、この村を2週間以上離れたことがないという生粋の市野々っ子で、小学校の宿題の日記にも家の稲仕事のことばかり書いていたという。「旅館時代に支えてもらった丹後の地に恩返ししたい」という和久傳の思いに打たれ、10年以上、その米づくりに協力してきた。平成5年から完全無農薬・有機栽培を貫き使用する主な肥料は、牛糞と鶏糞、そして積雪が始まる冬場には、高台寺和久傳の冬の名物料理「蟹焼き」に使った間人蟹の殻を雪の上にまく。

「昔から浜辺の人たちが言ってたんです、蟹殼を土にまくと柿もスイカも甘くなると。大学の先生の分析によれば、蟹のキチン・キトサンが土壌の善玉菌の養分になって作物の糖度を上げるそうです。蟹殼は、雪の中でふわふわに溶けて、養分として土に還ります。塩分も雪に溶けて、土に残ることなく川に流れていく。あれは不思議ですね」と、本田は話す。

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 市野々のある久美浜町の隣の峰山町に、「月の輪田」という史跡があり、日本の稲作発祥の地といわれている。そんな長い稲作の歴史がある丹後地域の中でも、「丹後富士」との異名を持つ高竜寺ヶ岳から湧き出る水に潤される市野々は、「日当たりが悪いのに誰が作ってもおいしい米が作れる」と言われてきた。本田は、高竜寺ヶ岳ふもとの落葉広葉樹林と風化花崗岩が生み出す弱酸性の水が、「米が喜ぶ水」だからだろうと考えている。特に川上谷川の最上流域に位置する和久傳のイセヒカリの棚田は、湧きたての清水が稲の一本一本を潤し、培うという。

 市野々の清水で育ったイセヒカリは秋に収穫され、玄米のまま、京丹後市大宮町の「白杉酒造」に運ばれる。そして再び、特別な水に出会うのであった。

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