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楮を育み、紙を漉く

 

 その和紙をさわると、土や水に触れた時のようなあたたかさを覚えます。「田中製紙工業所」五代目の田中敏弘さんが漉く紙は、正直で真っ直ぐな表情をしていて、和久傳のしつらいにも長らく使われてきた手漉き和紙です。

 かつて紙漉きの村として栄えた福知山市大江町二俣。この村を含む丹後地方で紙づくりが始まったのは、1200年以上前のこと。正倉院文書の「図書寮解」(774年)に「丹後は紙とその原料の上納国である」という旨の記述が残っています。

「この一帯では、古墳時代に丹波王国や丹後王国という文化圏が形成されていたと言われています。日本海側の玄関口として大陸文化が入ってきやすかったためでしょう。その中にあって、この村では朝廷に納めるための紙づくりを行なっていました。時代がくだり江戸慶長年間になると、農閑期に半紙などをつくり宮津藩に年貢として納めていたようです」

 しかし、昭和に入ると、洋紙や機械漉きの紙におされて徐々に紙漉きの家は減っていきます。そのうち楮を育てる農家も、楮の皮をはぐ家もなくなり、危機感を感じた田中家は、自ら楮の栽培を始めることを決意したそうです。

1年間に使う楮を自分たちで育て、また自ら手漉きする屋は日本全国でも稀です。和紙づくりは、風土と水が大きく関わっています。寒い地方の楮、暖かい地方の楮もそれぞれが違い、楮の皮ざらしを行う川の水、紙を漉く地下水の成分でも仕上がりが変わります。

「その土地でしかできない和紙が一番自然なんです」

 楮が新芽を出すのは、春。夏に向かって成長し、冬に霜がおりると葉が落ちる。それを合図に刈り取りを行い、生木から紙料となる繊維を取り出していきます。

 この繊維を取り出す手間の一つ一つが重労働です。釜で生木を蒸し、冷める前に外皮をむき、天候を気にしながら天日で乾かす。一晩水に浸けて黒皮や傷のある部分を取り除き、白皮のみにする。工房の前を流れる宮川でさらし、あく抜きを行う。その白皮を釜で炊き、再び水に浸けてあく抜きし、ごみや傷部分を取り除く。叩いて繊維をほぐした後、攪拌し、綿状にする。

 そして、ようやく紙漉きが出来る状態になります。楮の繊維を水を張ったスキブネの中に入れてまんべんなく混ぜ、そのままでは繊維が沈んでしまうため、トロロアオイの粘液を加えて繊維の動きをゆるやかにする。それをスゲタですくい繊維を入念に絡ませていく。

「紙漉きには地下水を使いますが、季節の変わり目には、トロロアオイの粘りがききにくくなることがあります。どうやら水質が変化するようですね。僕らの仕事は、自然と共にあると実感する瞬間です。天気ひとつとっても、愛宕山の上に雲が出てきたら、この出方は雨がこっちにくる、この出方は向こうに逃げるとか、すぐわかる。山の向こうから、まるでカーテンみたいに、雨がざーっと降ってくるのが見えますよ」

 大江町には、「二俣」や「宮川」など、三重県の伊勢と同じ地名が多い。伊勢神宮にゆかりの深い元伊勢内宮皇大神社・元伊勢外宮豊受大神社・天岩戸神社の「元伊勢三社」が鎮座するためで、その参道入口に参拝者のための杖が置かれています。外皮をはいだ後の楮の芯です。田中さんの父の正晃さんが、節をはらい、ぬめりを流して毎年納めているものだそうです。ほかにも、各地の神社から依頼を受けシデ用などの和紙を納めることが多いといいます。

 「神社に納めさせていただくのは、決まって生成りの紙ですね。楮の自然な色が、神聖な色とされているようです」

 和久屋傳右衛門の酒瓶に巻かれているのも、やはり田中さんが漉いた生成りの和紙です。その紙は生まれたままの風合いで、何も描かれていない。飲む人の時々の思いや、それぞれの願いが映し出されるのを待っているから。

酒は、さまざまな祈りが流れ着いた水のようだ。
伊勢神宮から和久傳に辿り着いたイセヒカリの種籾は、丹後の水に育まれて
米になり、丹後の水で酒に醸され、丹後の水で漉かれた紙をまとう。
その水が今、のどを潤す。